私が教会に行った きっかけは、その時、私の家庭が崩壊寸前の時、長女がある日突然私に、「イエス様を、信じて見ない。」と言うのです。「イエス・キリストを信じると永遠の命が与えられて死んでも天国に行ける。そして今の苦しみから開放して下さり、問題も解決して下さる。」と言うのです。経済は問題はなかったのですが、家族がバラバラでした。それは、霊的な事柄でした。問題が問題だったこともあって、一晩考えた末、教会に行って見ようと思いました。
始めて教会に行った感想は、まず皆さんが喜んで歓迎して下さり、嬉しかった事を覚えています。その頃も一週間一回食事会があってました。皆さんそれぞれの物を持ち合って、お金のない人も、皆んなの持ち合った物を、頂いていました。この時、私はクリスチャンは、「お金はなくても全世界の教会にも行けるのだ。」と思ったのです。
私が救われたのは、1988年でした。教会に行って、イエスキリストの事を、牧師から聞き信じ受け入れました。洗礼は1990年に受けました。この聖霊のバプテスマを受けた時が人生の中で一番の喜びだった事を今も覚えています。
私はイエスキリストが誠の神であられる事を知らずに生きて来た事、背を向けて生活して来た事、偶像を拝んだ事、人に向かって悪い言葉を言った事らを、ひとつひとつ悔い改めました。

 

 

 

 

ある時、私の妻が癌と診断され、すぐ入院し、診断を受けた所、腸癌と診断され、手術は5時間半に及びましたが成功でしたが、癌は進んでおり4期で、成功してもまた、1年か、2年かすると、また再発の恐れがあると言われ、私は、落胆し、死ぬ事を考える様になり、二日間悩みました。そして、どの様にして死のうかそればかり考え、死ぬのはいつでもいい、まず子供達に負担が掛からない様にと、少しでも小道具を捨てようと思い2日、かかって、捨て始めました。最後に、書棚の中にも少しあったので、それを捨てようと取り出した時に一枚の小さな神が落ちて来ました。それは聖書の御言葉でした。その時は何とも思わなかったのですが、後になって、だんだんと、その御言葉が私の心に迫って来て、これはもしかして神が私に何か語っておられるのかも、と思い神様、私はどうすれば良いですか、言葉を与えて下さいと聖書を引き出して来て、開いた時、言葉が与えられました。それは、「見よ。わたしは すべての肉なる者の神 主である。わたしに出来ない事が一つでもあろうか。」エレミヤ書32章27節でした。それで私は嬉しくなって、もう一度確認を、取りました。神様これは、本当にあなたの言葉ですか。教えて下さい。と祈りました。「すると、イエスはいわれた。「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを起こすのですか。(ルカの福音書24章38節)が語られました。そのとき私の目には神は見えませんが神は、いつも私たちの事を、見ておられるの
だと、十字架は人を死から、命へと導いて下さるのだ。この時十字架は、愛だったのだと解った時、涙が溢れて止まりませんでした。自分が死を前にした時、神様の御言葉が私の生きる力となりました。神様を求める為にこの事が許されたのだと思うと、私の心に光が輝き出したのです。この時ほど神の愛を感じた事はありません。人間は、神の言葉によって生かされる事を知り それから価値観が変わり、今は神様なしでは考えられない。生きていて良かった。と心からそう思ってます。これからは、イエス様の愛を多くの人々に伝えて行きたいと思っています。